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翼をください (「翼で飛ぶ。」プロトタイプ)

2009年に作成した読物「翼で飛ぶ。」は、その2年前にあたる2007年にシナリオ形式で書いた「翼をください」を原型としています。
おおまかな話の流れは一緒ですが、登場人物の名称・性格や細かい展開において異なります。「六畳幻想パノラマ館」より転載した特典のつもりで。




○スカイハイツ703号室・押し入れ
   西島杏太(7)、僅かに開いた襖の隙間から夕暮れの空をながめている。飛行機雲が、茜色づいた青に
   まっすぐな白い軌跡を残していく。瞬きひとつしないで見つめる杏太。すると突然、壁の向こうから聞こ
   える赤坂天音(14)の叫び声と赤坂伯雄(17)の怒声。
伯雄「てめぇ! ぶっ殺してやる!」
   ためらうも、襖を開ける杏太。


○同・玄関
   外から乱暴に叩かれるドア。杏太、恐る恐る近づいていく。
天音「開けて下さい、助けて、助けて!」
   杏太、ドアのノブに何度も手を伸ばしては引っ込める。ノブの横に張り紙。赤い文字で、「アケルナ」
   と殴り書きされている。
天音「知ってるよ。いるんでしょ、君」  
   その声に、ハッとする杏太。背伸びして、目上の位置のノブに手をかけ、鍵を外す。力を込めて、開け
   る。
   杏太を見下ろす制服姿の天音。
天音「……やっぱり。君だったんだ」
   天音、杏太に優しい微笑みを投げる。
   と、天音の背後で隣の704号室のドアが開く、現れた伯雄、杏太には見上げるような体躯。伯雄、天
   音のセーラー服の襟首を強い力で引きずる。
天音「痛い! 破れるよ、放してよ!」
伯雄「黙れ役立たず! さっさと来いよ!」
   杏太の部屋のドアにしがみつく天音を伯雄は強引に704号室へ放り込む。伯雄、杏太を睨む。髭と
   脂と垢だらけの顔。杏太、怯えてドアを閉める。押し入れに駆け込み、ぴったり襖を閉じる。隣の部屋
   から漏れてくる天音の悲鳴と伯雄の罵声。
伯雄「俺はめんたいこ味しか食わないんだよ! なのにチーズ味嫌いなの知ってて、わざと買ってきやが
 ったな!」
   物が落ちる音や殴打音、最後に聞こえたのは、天音らしい呻き声。
   杏太、布団を被って縮こまる。


○同・押し入れ 夜
   襖が勢いよく開けられ、眠っていた杏太、重い瞼を開く。西島杏奈(26)、手に持ったビニール袋を
   揺らして、
杏奈「ただいま。ヤキトリ買ってきたぞ」
   杏太、安堵した表情。


○同・居間
   食卓に向かい合う杏太と杏奈。テーブルには、ご飯と焼き鳥とペットボトル。杏奈、焼き鳥の肉を串
   から抜いて、杏太に差し出し、
杏奈「今日もいい子してた?」
杏太「うん」
杏奈「部屋の外やベランダ、出てないよね」
杏太「出てないよ」
杏奈「おし、偉い」
   その時、壁の向こうから赤坂青次(45)と天音の口論が伝わってくる。
青次「どうしてお兄ちゃんの言うことが聞けないんだ。お兄ちゃんは病気なんだから、お前が面倒を見なき
 ゃいけないのに」
天音「病気なら病院に行けばいいじゃない! 何で私がこんなことしなくちゃいけないの」
青次「妹のくせになんて薄情な奴なんだ、この役立たず!」
天音「私は役立たずじゃない!」
青次「うるさい口答えするな!」
   物が壊れる音と天音の悲鳴が交錯する。
   杏太、反射的に体を固まらせる。杏奈、焼き鳥を口いっぱいに頬ばりながら、
杏奈「うるさいなあ。毎日よく飽きないね。あんた、お外にはあーゆー人たちがいっぱいいるんだからね。
 絶対、出ちゃだめだよ」
杏太「……はい」
   杏太、隣の部屋の壁に背を向けるが、食は進まない。


○同・押し入れ 昼
   開いた襖から窓を見ている杏太。と、ベランダに映る人影。天音が、窓をコツコツ叩いている。杏太、
   驚いて、立ち上がる。
天音「ドア叩いても返事してくれないから、こっちに来ちゃった」
杏太「どうやったの?」
天音「知りたい? じゃあ鍵開けて」
   杏太、「アケルナ」の張り紙と睨めっこするが、結局鍵を外す。天音、窓際に来るよう手で招く。隣と
   は天井まで届く板で仕切られている。天音は、軽い身のこなしで細い手すりの上に乗る。
天音「私、天使なんだ。空気、気持ちいいよ」
   髪やスカートが風で揺らめく。天音は手すりを伝って隣の部屋のベランダに降りる。唖然とする杏太。
杏太「……すごい」


○同・居間
   部屋に入ってくる天音。杏太、天音の首元が裂けたセーラー服を見て、
杏太「……大丈夫?」
天音「平気。天使はこれくらいで負けないよ」
杏太「……テンシって?」
天音「本やテレビで見たことない?」
   天音、部屋を見渡す。テーブルと食器戸棚以外何もないがらんとした部屋。
天音「いつも、家にいるんだね」
杏太「外、出ちゃダメだから」
天音「どうして?」
杏太「怖い人がいっぱいって、お母さんが」
天音「うちのお兄ちゃんも、そんなこと言ってる」
杏太「あんなに大きくて強いのに?」
天音「そう。不思議だよね」
   二人、小さく笑う。
   秋めいた穏やかな日射しが射す居間に腰を下ろして語らう杏太と天音。杏太の表情から徐々に頑なさ
   が消え、笑顔がこぼれるようになる。時間を忘れて、二人だけの世界が生まれる。
天音「天使はね、神様のお使い。背中の羽根をはためかせて、世界中の困った人や苦しんでる人を助けて、
 みんなの笑顔や幸せを守るために戦ってるんだよ」
杏太「お姉ちゃんにも、羽根があるの?」
   杏太、天音の背中を見る。うなじから服が破れかかった背中に、無数の痣がある。天音、首を振って、
天音「ううん。一人前の天使だけが、羽根を持てるの。私はまだ、ダメだから」
   天音、杏太に向き直る。口元の殴られたらしい痛々しい跡に、杏太は気づく。
天音「でもいつか、翼を持てるって信じてる。そしたら、君を外へ連れてってあげるよ」
杏太「え、でも外は……」
天音「怖いものや辛い悲しいこともあるけど、それ以上に、優しくて素敵な場所が、この世界にきっとある。
 行けるよ。一緒に」
   天音、杏太の真っ白な細い手を握る。杏太、戸惑いながらも、うなずきかける、その時。玄関でドアの
   鍵が開く。
杏太「……お母さんだ」
   天音と杏太、立ち上がった瞬間、中に入ってきた杏奈の瞳が二人を射貫く。
   沈黙。杏奈、血相を変えて、
杏奈「なに。何なの、あんた!」


○同・押し入れ
   杏太、泣きながら襖を叩く。襖は開かないように外から細工されている。
杏太「出して、ねえ開けてよ!」
   杏太の声は誰にも届かない。代わりに杏奈の、青次の、伯雄の、天音の声が次々に聞こえる。
杏奈「こういうことがありますと、非常に迷惑するんです。わかりますか!」
青次「申し訳ありません。どうか、警察にだけは……おい、謝れ! 謝らないか」
伯雄「能なし! 役立たず! ゴミウジ虫!」
青次「こんな恥をかかせて、何て娘だ!」
天音「痛い! やめて、お願いやめて……」


○スカイハイツ非常階段 昼
   息荒く、ゆっくりと階段を上る天音時折、痛みをこらえる呻き声。彼女の通った跡には点々と血が垂
   れる。


○703号室・押し入れ 昼
   乱暴に開かれる襖。杏太、外の光に眩しそうに目を細める。仏頂面の杏奈。
杏奈「昼飯」
   

○704号室
   居間で首を斬られて絶命している伯雄。
   傍に捨てられた血まみれの包丁。


○スカイハイツ・屋上
   血が噴き出す腹を押さえて、屋上の手すりに寄りかかる天音。髪も服も切り刻まれてボロボロ。必死
   に手すりを乗り越える。傷口が触れて、押し殺すような悲鳴。天音の瞳から光が消える。
天音「おねがい、君に……届いて……」
   天音、手すりから体を離す。


○703号室・居間
   無言でコンビニ弁当を摘む杏太と杏奈。その時、杏太の耳に翼のはためく音が鳴る。とっさにベラン
   ダを振り返る。
   一直線に墜落していく天音。
   杏奈、椅子から転げ落ち、絶叫する。
   鍵を外してベランダに飛び出す杏太。
   下を見る。アスファルトに血まみれの天音。涙で顔を濡らす杏太、自分が外に出ていることに気づく。
   息を吸う。


(了)

テーマ : 自作連載小説
ジャンル : 小説・文学

翼で飛ぶ。 (5/5)

 開かないように鍵がかかるのは、玄関のドアと窓だけだと思っていた。押し入れに入ってろと怒鳴られたことはあっても、手をかければ襖はいつでも開いた。だから、ママさんの怒りが鎮まる頃合いだけを待っていればよかった。それが、今は外からつっかい棒で固定されただけでなく、ぴたりと密着するまで押しつけられたタンスが、彼の力ではどうにもならない壁を築き上げていた。叩いてもわめいても無駄だった。半狂乱のママさんは、少女を部屋から引きずり出すと、彼を殴りこそしなかったもののすぐさまここへ閉じ込めた。「破ったら殺すぞ」と怒りで破裂するような一言を残すと、それきり畳を踏む様子もなかった。タンスで隙間の光さえ閉ざされた押し入れの中では、何分と何時間の区別もつかない。ママさんはしばらく隣の家のドアの前でヒステリックに叫んでいたが、そのうち足音を立てて部屋に戻ってくると、ずいぶん長い間、電話らしい一人の会話が聞き取れた。相手は玩具を買ってきた男だろうか。ママさんの声は、彼が今まで聞いたこともないほど冷静さを失っていた。ボタンを押すと必殺技の名を叫ぶ変身ベルトのように、どうしようどうしようと繰り返し訴えていた。隣んちにバレちった引っ越した方がいいかしらと時折、泣き声のような響きすら混じる。彼はママさんの狼狽など、少女の行方に比べれば何の関心もなかった。しかし、彼がどんなに隣の部屋に耳をそばだてても、少女の声は悲鳴さえ一向に伝わってくることはなかった。代わりに少女がお兄ちゃんと呼んだあの大きな男、さっきママさんが怒りをぶつけたらしい相手が、ママさん以上に同じ文句を、壊れた玩具のように唱える。「親父がいない間に、よくも俺に恥をかかせたな! 畜生お前なんか死んじまえ俺に恥をかかせやがって! 俺に恥をかかせた報いを思い知らせてやる!」掠れ、つぶやき同然になり、とうとう聞き取れなくなっても、闇の中で乱れ始めた彼の意識に食い込むように、その声は執拗に鳴り続けた。時間の感覚が薄れても生理的な欲求は歩調を合わせようもない、彼は尿意に耐えられず垂れ流した。押し入れ中に充満するおしっこのにおいと、ママさんに怒られるという罪悪感に冒されて、彼はめまいに襲われるや布団の上に吐いた。わけもわからず辺りをまさぐる指は、胃液で溶けかかった食べ物らしいねばねばに届いた。涙とよだれとおしっこと吐いたもので顔中を濡らした彼は、それがスナック菓子のなれの果てと思い至ると、再び手づかみ口に入れた。飲み下すことで、少女の存在を身近に留めておけると思った。彼には、もう少女と今までのように会うことは叶わないだろうという予感があった。けれども、最後に交わした約束だけは、少女はきっと果たしてくれる。少女がくれたブラウスの切れ端を握って信じることが、正気を保つよすがとなっていた。しかし、暗闇の中にいるのか暗闇の夢を見ているのかも分からない、眠りと覚醒の間で曖昧に揺れる意識は、次第に少女を思うささやかな慰みさえ飲み込んでいった。二度と明るい場所には出られないと思い知るだけの絶望が、彼を取り巻き包んだ。そのまま長い、長い時間が過ぎた、その後。タンスと襖の壁の向こうから、爆ぜるような音が押し入れに散った。それは布団や枕を振り動かし、押し入れの壁板を貫いて、マンションの隣室へと伝わっていく。彼をも醒ましたその声は、確かに、変身! と聞こえた。


 ママさんは、汗みずくになりながらやっとの思いでタンスを元あった場所へ戻し終え、いったいどうしてこんなものを動かせたんだ、こういうのを何の馬鹿力だったかと首を捻ってみたが、押し入れから来る饐えた臭いに当てられ最悪な気分に、この上、頭痛の種を増やしたくもない。汚れた布団も押し入れの中も、除菌スプレーをしとどに滴るほど浴びせかけたが、窓の外は夕立でも来るのか、にわかに黒い雲が茜色の空を覆い始めて、さっそくポツポツ落ちてきているのでは、ベランダに干すわけにもいかない。とりあえず、本降りになるまで窓は開けたままで、部屋の空気だけでも入れ換えたかった。
 目をかけてないと何するか分かったもんじゃないと、ママさんは隣の部屋で膝を抱えて座る彼を忌々しく見やった。リビングのテレビは、昨日借りてきたDVDを映している。怒りと不安に悩み通しですっかり存在を忘れていたが、夜が明けてもう一度同僚の男と話して、ようやく頭が冷めてきた。隣の子どもに見られたからといって、父親は出張で家を空けているらしく、上の兄貴はこっちが何を言ってもろくに人の目も見て話せない引きこもり同然の能無しのようだし、勝手に人の家に上がり込んだ妹も、あの兄貴なればこそのとんでもない子どもだが、あれだけ脅したのだから、もう寄りつきはしまい。ただ、早晩ここは引っ越した方が安全だろうから目立たぬ準備は始めようと意見もまとまると、瞼の上まで迫ってきているように思えた我が身の破滅を鼻で笑える余裕もできた。久しぶりの休みの午後をどう過ごそうかと考えたところで、玄関に放りっぱなしだったレンタルショップの袋に目が留まり、そう言えば一泊二日で借りたのだから、今日中に見ないといけないのかよと気づいた。DVDをセットして、丸一日閉じ込められて少しは懲りただろうと彼を呼ぼうとしたが、タンスをどかすのに手間取ってるうち、久しぶりに電源を入れたテレビから鼓膜が破れるかと思う大音量が飛び出した。慌ててボリュームを絞ったが、画面にはこの番組で少しは売れたのだろうが最近は鳴かず飛ばずでテレビでも見なくなった若手の俳優が、腕を振り上げるや全身スーツを着た妙な姿に変わり、部屋のぬいぐるみとは似ても似つかぬ気持ちの悪い怪物をボコボコにしている。腰の変身ベルトを見ると、男が買ってきたものとはデザインが異なるようで、似たようなジャケットの中から適当に選んだのが失敗だった。まあ見た目は違ったところで大して変わりはないだろうし、「おまえのために借りてやったんだからこっち来て見な」と、押し入れから彼を引っ張り出したが、彼の体から布団から押し入れそのものから押し寄せてくる悪臭に鼻が曲がりそうだ。あまりの惨状にどんだけ迷惑かければ気が済む糞ガキと再び我を失いそうになったが、男の電話で、この上は更に子どもに手を挙げて余計な騒ぎを起こさないほうがいいと念を押されているので、寸前で堪えた。全くこんなもののどこが面白いのかまるでわからないが、どうせすぐに見終わるだろうと高を括っていると再び、変身! と言い出して何だよ終わったんじゃねえのかよとメニュー画面を見ると、DVDには四回分が入っているらしく、あと三べんも変身するのかこいつはと暗澹たる気持ちになる。先に風呂入れと彼を急かしたが、画面に見入ったきり頑として動かないので、好きにしろとさじを投げ、湯だけ張っておくかと風呂場に向かった。隣の部屋と壁を接する風呂場に入ると、またぞろ何やら騒がしい物音が震動のように伝わってきて、隣の兄妹にも、ほとほとうんざりする。連中の親父が帰ってきたら改めて怒鳴り込んでやりたいが、それまでここにいるものか。
 ママさんが去り際、背中に吹きかけた除菌スプレーが、彼のTシャツを冷たく濡らす。開けた窓から吹き込む風で肌は粟立ち、汚れきった体はスプレーの芳香が加わって、えも言われぬにおいを放っていたが、彼はさして気にもならなかった。今しがた、三回目の変身! が聴くともなしに彼の耳を通り過ぎていった。ママさんは彼の背後で、はじめこそこいつ演技棒読みじゃんとかショボいCGだななどと茶々を入れていたが、つと立ち上がって風呂場に消えると、「ああガスつけるの忘れてんじゃねえよ、水風呂張ってバカみてえ」と苛立った声を響かせた。戻ってきてからは黙りこくったまま、食卓机に足を乗せて缶ビールを空けはじめている。合間に柿の種を頬張っているらしい、噛み砕く音はテレビと張り合うようだ。
 彼はテレビに夢中な風を装っていたが、その実ほとんど身が入らなかった。画面に映っているベルトが、手元のおもちゃと別物なことはすぐにわかったが、ベルトの持ち主が変身して戦う場面はものの数分で終わってしまい、その後は何が起こっているのかよくわからない難しそうで退屈な映像が続くばかりでは、次第に興味も薄れていった。おのずと、彼の視線は網戸の向こうのベランダへ移った。ズボンのポケットに手を入れ、少女のブラウスの一部に触れる。襖が開いた瞬間、ママさんに取り上げられないよう隠していた。汚れが染みついてヌルヌルになっているが構わず、素早く手のひらに収める。ポケットに入れている間に、ひょっとして羽根に変わっていたらと思ったが、そんなことは起こるはずもないと諦めきった気持ちが告げている。少女は、あれほどにそうありたいと願っているのに、どうしてテレビのように変わることができないんだろう。彼女が彼女の望むままのものになるには、何が足りないのか。「お、多分もうすぐライダーなるよな。ああ、やっと終わってくれる。長かったわ」ママさんの声は疎ましく、テレビの中ではベルトを巻いて今にも変身ポーズを取るようだ。彼は、少女が天使について語っていた言葉をしきりに思い出そうとする。──天使は空から下りてくる。翼を持って。苦しんでいる人を助けるために。その翼が欲しければ、少女は何と言っていたか。感情の高まりに任せて聞き流してしまった自分に腹が立つ。そう、翼が、欲しければ──飛び越える。何を? 彼の見つめるテレビの中で、ちょうど今、ヒーローが現れる。
 変身!
 窓の外を何かがよぎった、と思う間もなく、ベランダの手すりに衝突して、重い音を残して、落ちていき、またたく間に下方へ消えた。テレビでは戦いが始まっていたが、彼の目は窓に釘付けで身動きも取れない。ママさんが先に立った。
「なに今の? なんかぶつかった?」
 ベランダに出ようと網戸を開ける。彼はママさんの足にしがみついてでも引き留めなきゃと思ったが、手遅れだった。ママさんは恐る恐る手すりに近づく。白色の手すりに、鮮やかな朱の模様が浮いている。はじめ鳥が翼を伸ばしたようにも見えたが、ママさんは奇妙なほど冷静にそうじゃないと理解する。手すりに届けとばかりに、五本の指をいっぱいに広げた、大量の液中に浸さなければ描けない、真っ赤な手の跡と、気づく。下を見る。マンションの入口脇の草むらに、動かないものがある。いや、いる。手足が不自然にひん曲がって、青々とした雑草に埋もれかかって、そうとわかる。しがみつくように粘っこく手すりを染める正体に思い至り、ママさんは「いやあ」と短い出来損ないの悲鳴をあげると、うっかり触れてしまった指先をぶんぶん振った。
「落ちた、人が、落ちてる、落ちてるよ」
 何をすればいいのかとっさに思い浮かばず、興奮で声をうわずらせて、ママさんは振り返った。そこに座っているものと思っていた彼を見つけようとした。いない。視線を奥へ伸ばす。玄関のドアにたどり着き、鍵を外そうと腕をせいいっぱいに掲げる、彼がいる。外に出るのか。「待て、待てよ!」叫ぶと、彼がママさんを見た。表情が凍り付くが、鍵をつかんだ手を離さない。逃がすか。ママさんはベランダからリビングへ、足下の人形を踏み潰して、玄関へ走る。畜生。鍵が外れた。彼がドアのノブを握る。逃がさない。ドアが開いた。絶対に。彼が外へ一歩踏み出す。おまえを、逃がさない。手がTシャツの首をつかんだ。おまえはあたしのものなんだから──
 踏み出した足が、唐突に力の行き場所をなくしたようだった。まるで氷の上を行くように、体が意思に逆らいバランスを崩す。立て直そうと思っても、間に合わなかった。ドアの外、階段の踊り場にママさんは背中からしたたか転倒した。びちゃりと水溜まりに叩きつけられたような感覚。彼を得たと思った手は、離れていた。見える天井が火花を散らして不快に点滅するようで、腰が痛みでジンジン唸る。でも、それより気になるのは、背中に浴びた不快感。何だ。水みたいなこの感じ。踊り場に誰かがぶちまけたのか。違う。このつんとした鉄錆めいたにおい。水じゃない。似てる、さっきの、ベランダの、あれと。べっとり濡れそぼった手のひらを顔の前に持っていく。飛び込んできた、目に痛いほどの、赤。まだ生あたたかくねっとりとして、爪の奥まで絡みついてくるような、血だまりに踏み込んで、つるりと滑って転んだ。全身、髪から足まで、血まみれだ。頬の筋肉がゆるむのがわかる。叫んでいるつもりなのに、あひいという変な音しか喉から出ない。おかしい。まるで笑ってるみたいだ。目の前、隣の部屋のドアが開いている。浸かっている血は、そのドアの先、隣の玄関から流れ出てきている。そこに何か大きなものがうずくまっている。なぜか膝下までズボンとブリーフを下ろして、毛深い足を力なく投げ出し、股間を押さえて呆けているような、男。その手にも、ぬめりと光る血だ。こいつ、隣の兄貴か。髪でほとんど隠れた顔は更に血をかぶって、ろくに見えない。半開きの口から、黄色い歯がのぞき、がちがち鳴っている。「おれじゃない、あいつのほうか、らとびこんできたん、だ、おれはやっ、てないよう」言い訳のつもりか、足先に転がっている血しぶき閃く包丁を蹴り飛ばして、あごで上へ続く階段を示す。血の滴が、踊り場の溜まりから分裂するように離れ出て、一段一段、蛇行しながら階段を昇っている。立ち上がって、よろめきながら上の階へと歩んでいった。血が。いや、血の主が。誰だ。下の草むらに落ちていった、あれ。「なんかやべえん、だけ、どおれのちん、こ、ちぃ、とまんねえしちくしょうよくもよくも、ねえおばさん、おれのちん、こ、きれてないかな、まだつながってるかな、おばさんおれこわくてみれないよたすけてた、すけて」男がガクガク震える手を股間からのけた。ママさんはプツンと頭の中の糸が切れたようで、「てめえ、そんなもんみせんじゃねえ」そのせいか目に映るものは、血の海だけでなくあたり一面、目に染みるような赤ばかり、憎んでも憎み足りない男の股間のものを目の前から消えちまえと踏み潰す。やわらかいものがぐしゃりと壊れる手応え。気が狂ったような男の絶叫。ざまあ見ろ、と思う暇もなく、また足が床を滑る。再び見える全部がすってん回って、ママさんは血だまりにダイブした。なんだこりゃ。まるでつまんねえお笑い芸人かよ。──見てるか。──見てるのか、おまえ。ママさんは、血を吸ってごわついた髪の毛をかきあげて、階段を降りた曲がり角を見た。一段下の、踊り場に立っている彼を見た。彼もまた、ママさんを見つめていた。視線が交差した刹那のうちに、ママさんはDVDが終わったら彼に聞きたいことがあったと思い出した。──おまえ、あたしには一度もキスしてくんなかったけど、あの子とヤッてどうだったか教えろよ。そう言おうと決めていたのに、ママさんが口を開きかけた時には、彼の裸足は地面を蹴っていた。階段を下りていく。たどたどしい足音がママさんの耳に聞こえる。遠ざかっていく。ママさんは重たげに身を起こすと、口中にあふれる血とよだれを飲み込んだ。
 トンネルのように薄暗く狭い階段を下りきって、管理人室やポストが並ぶ共用スペースを、彼はがむしゃらに駆け抜けた。足の裏が砂利を踏んで痛いが、気にならない。進む先にマンションの出口が、彼に外の世界を導くように白んだ光を放っている。ふいにすれ違ったように思えたのは、ママさんに否応なく手を引かれて、ここを歩いてきたずっと前の彼自身の姿だったか。あれから、どれだけの時間が経ったのか。通路の果てを踏み越えるや、いくつもの水滴が彼の頭に腕に弾ける。仰げば、目にも丸く映える大粒の雨が、長いこと窓越しに眺めるだけだった天井のない空間から、彼が見るもの全てに降り注ぐ。隣のマンションの建物を、駐車場の車を、足下のレンガ色の歩道を、雑草が茂る前庭を、そこに倒れて動かない少女を、汚れを洗い流すように隔てなく。「そと きもちー でしょ」草生に顔のほとんどが埋もれた少女が、白目に圧されかかった瞳で彼を見つけた。少女に歩み寄ろうとする彼の足は、壁に突き当たったようにそれ以上動けない。うつ伏せに倒れているのに、腰から下はねじられたように横を向き、外側に折れ曲がった足は、投げ出された腕にあり得ない角度で触れている。元の色が分からないほど染め上げられたTシャツは脇腹の生地が裂け、ぱっくり肌を割る刺傷は、流れるものを出し尽くしてどす黒い。呼吸で微かに膨らみ萎む背中が、辛うじて少女を壊れた人形の一歩手前で踏み留めている。爪が剥がれ飛んだ指先が、ぴくりと彼を求めた。満足に動かない唇と舌の隙間から、たえだえの声が漏れる。「ね 。 も いちど いって 。わたし  の はぁね とっっっても、 きれえ  って」汚れたボロ切れのような白地の布が、握る彼の手をすり抜けて、ひらひら地面へ落ちていく。少女の指が、最後の力でそれを掴もうとして虚空に伸びるが、あと僅かのところで届かない。いたずらな風と戯れるように、丈高い草むらに消えた。ママさんは言っていた。──空気読めない子どもになるなよ。ま、そんな勇気ないか。少女の首が、がくりと垂れた。雨は叩きつけるように激しさを増し、駆け出す彼の足音もかき消した。


 不審に思った通行人が交番に届け出て、警察は身元不明の子どもを保護した。照会の結果、数百キロ離れた他県で七ヶ月前、母親と散歩に出かけた公園で行方が分からなくなっていた少年と判明した。誘拐事件として捜査していた警察は、少年本人から今までどこで何をしていたのか質そうとしたが、彼は一言も口を利こうとしない。医師は、心的外傷によるストレス障害で一時的緘黙状態にあると診断を下した。少年の両親は、数百日ぶりの我が子との再会を涙を流して喜んだが、あんなに元気でおしゃべりだったのにどうしてと嘆いた。少年の治療は続いているが、依然、病状に変化は見られない。



(了)



引用文献
「はだかの王さま」The Emperor's New Suit (青空文庫)
著 ハンス・クリスチャン・アンデルセン Hans Christian Andersen
訳 大久保ゆう



テーマ : 自作小説
ジャンル : 小説・文学

翼で飛ぶ。 (4/5)

 怒りに任せた蹴りは彼の首から顎を捉えて、小さな体は和室の襖に激突した。ママさんは、泣きもしないのはさすがに少しやり過ぎたかと後悔の念こそ兆したものの、彼が無事げほがほ咳き入り出したので、別に大したことはしなかったと安心できた。むしろ何を大袈裟に吹っ飛んでんだあいつの同情を買うつもりかと、リビングでのんきに煙草をくゆらせている同僚の男を睨んだ。男が手土産にと買ってきたおもちゃ屋の紙袋は、ママさんの一撃で部屋の隅にひっくり返っている。
「ちょっと、頭とお腹は蹴っちゃダメよ。死んじゃったらどうするの?」
 男は、見るに堪えない風に顔をしかめると、ママさんの脇をすり抜けて、うずくまる彼を抱き起こした。
「ほらボク、大丈夫? あんた知ってんの。頭殴ると脳細胞が1万個もなくなるって。バカになっちゃうじゃない」
 言いながら、男は無意識に自分の頭をさすっていた。お互いろくな親を持たなかったことを嘆き合って、暴力はよくないよねと意見が一致したのは、いつの晩だったか。少なくとも、ママさんの方では頭の隅にも留めていないらしい。
「もうとっくにバカだよ。開けるなっていくら言ってもわかんねえんだから。その辺の野良犬の方がまだマシ」
「そう言ったってさあ、一日中こんな部屋に閉じこめられてたら、少しくらい外の空気吸いたいって思うのも仕方ないじゃない? ねえボク」
 男は、彼の頬を指で突っつきながら、人懐っこい笑みを浮かべた。満面に無害さをアピールして、公園で彼に声を掛けた時と変わらない。
「表に出しても大丈夫じゃない? 帽子でもかぶらせとけば、こっそり夜に散歩したってわかりっこないって」
 男の言葉を封じるように、ママさんは開けた冷蔵庫の扉を叩きつけ、取り出した缶ビールを喉に流し込む。勢い余って口からこぼれた黄金色の液体が胸の開いた服を伝い、男は呆れたように肩をすくめた。
「なんだかね。人に誘拐の片棒担がせといて、あんた今、結局何してるわけ? ほんとの母親よりかわいがってみせるって大見得切っときながら、実際やってることは普通に児童虐待よ、これ」
 善人面した男への敵意が沸点に達して、ママさんはもう一度足を振り上げたが、寸前でカーペットのぬいぐるみに矛先を切り替えた。部屋中に吹っ飛んでいくこの子たちは、どんなに殴ったって足蹴にしたって、いつだって変わらなくかわいいのに。
「だからあれほど言ったのよ、さらうならあんたは女の子の方がいいって。私の意見なんてちっとも聴く耳持たないんだから」
「これでいいんだよ。女なんて興味ねーし」
 ママさんは、胸元を滑るビールの滴を指ですくい取り、しばらくまじまじと眺めていたが、何を思ってか畳に膝を突いた。口を挟もうとする男を押しのけて、また殴られる恐怖に眉根を歪めている彼に向かっていざっていく。背く顔を無理に引き寄せると、ビールまみれの指先を、頬になすりつけた。アルコールのにおいに当てられてか、彼は苦しげにむせ返る。それでもママさんは構わず、額も鼻の頭も、汚ないものを塗りたくるように、べたべたと濡らしていった。
「ねえ。あんたの気持ちもわかるけどさ、この子には何の罪もないじゃない」
 黙って見ていられず、男はママさんの肩に手をかける。ところが、思いがけず邪険に振り払われた。
「あるよ」
 ママさんは、半ズボンの足を強引に開かせると、股間の真ん中に手をあてがった。嫌がる彼の体を押さえつけて、顔と同じにそれ以上に、指で手のひらで入念にいじくり回す。
「ついてんじゃん、かわいいくせに、いっちょまえに」
 あの晩ベッドの上で、男が父親にぶん殴られた頭の傷を見せびらかしていると、ママさんはいきなり起き上がって下着をまくり、男の目の高さに下腹部を突き出した。色白な肌を、更に真っ白な縫い跡が、体毛を縦に貫いていた。──あたしのこの中、空っぽなんだ。
「ほら動いた。今ビクって動いてる。すげえアホくさっ」
 まるで「我が子」の新しい成長を喜ぶ母親のように、ママさんは声を上ずらせた。その手のひらに包まれて、ファスナーの辺りを突っ張らせている半ズボンを、男は暗然と見つめていた。

 
 彼の期待に反して、少女が窓を叩いたのは、それから二日も経った午後だった。夜の騒ぎを聞いて、すぐにも飛んできてくれると思っていたのに、押し入れの向こうの隣室は、しんと静まり返っていた。
「毎日来るって言ったのにね。大丈夫だった?」
 うなずく彼に安心したような微笑みを力なく浮かべると、少女は腰を下ろすのも辛そうに、やっとのことで畳に足を投げ出した。彼女がママさんのことを心配して尋ねたのなら、昨日に限ってママさんは彼の保護者を演じていた。二度と来るなと男を追い返した夜が明けると、ママさんは憑き物が落ちたように彼を泣きながらかき抱き、風呂場で彼の体を丁寧に洗った。口を開けば「ごめんねごめんね」とつぶやくばかり。ひょっとして泣いていたのかもしれないが、シャワーで濡れたママさんの顔に涙を見分けることはできなかった。この日、ママさんは一度も彼に手を挙げることはなかった。日が暮れて男が残していった紙袋のことを思い出し、彼を呼ぶとハサミを持たせて封を開けるのを手伝った。
「腰のそれ、変身ベルト? おかあさんに買ってもらったんだ。良かったね」
 少女は、彼の玩具への興味もそこそこに、じっとしていても体が痛むのか、顔色は生気に乏しい。ママさんは、「ったく、あいつテレビ映んないの知ってるくせに、見てるわけねえじゃん」と、ぶつくさ愚痴をこぼしこそすれ、ピカピカ電飾が光る玩具を彼の腰につけてやると、まんざら悪くない格好いいじゃんとおどけてみせた。出かける前、寝癖で屹立した彼の髪を撫でつけて、「早く帰ってDVD借りてきてやるから。ライダー一緒に見よ」そう言うママさんの声は、酒を飲んでなくても穏やかだった。
「ひどい格好でしょ、私」
 少女がブラウスから着替えたTシャツは、色こそ同じだったけれど、彼の着古したランニングと変わらない、肌が透けて見えるような薄っぺらだった。日射しを受けて目に痛いほど白く映えた生地が、その向こうでより数を増して露わになった生傷を、残酷にほのめかす。下の見覚えあるスカートも、貧弱な上着に引きずられるように、折り目が消えかかってだらしなく太ももにまとわりついていた。少女はそんな有様を恥ずかしがるように目を伏せると、畳の上に丸まった、ブラウスだったものを彼に示した。しわくちゃで、あちこちが裂かれ汚された布きれの中に、繕い糸の端が見える。
「破かれちゃった。最後の一枚だったのに、もう着れないよ」
 大したことないように振る舞っていても、大事なものを失った悲しみが自暴自棄な諦めを呼んで、震える声を抑えきれない。手すりの上で髪や制服を風になびかせ、高らかに宣言してみせた彼女はどこへ行ったんだろう。押し入れの彼まで壁を越えて伝わってきた、あの怖くて痛い、有無を言わせない力が、ブラウスと一緒に天使を顕す羽根さえも、雑草のように摘み取ってしまったようだ。二度と生えてこないように、根っこごと引き抜いてしまったようだった。
「きのうだって来るつもりだったんだよ。このお菓子だって、きのう買ったんだし。でもね、わかってほしいんだけど、おねえさんだってほら、例えば体の調子が悪かったり、ほかにもいろいろ、大変なんだよね。君には、わからないかもしれないけどさ。まだ小さいし」
 奮い立たせるように張った声が、どんどん弱々しくなっていき、やがて漏れ出るような吐息に消える。少女が手を目元に何度もあてがって、彼ははじめて泣いているんだと気づいた。
「言い訳ばっかり、全然ダメだよね。いつもこうなんだ、私。絶対って決めたことも、少し時間が経つとすぐに……。忘れてるわけじゃないのに、気持ちに嘘はついてないと思うのに。気がついたら、いつもの嫌な自分になっちゃってる。こんななのに君の前で偉そうに天使だなんて、バカみたい」
 話しかけてくるようでいて、声の行き先を逆戻りさせている少女は、シャワーに打たれる昨日のママさんをそのままなぞっているようだった。あの時も、彼は、ママさんにどう応えるべきかわからずに、ただすがるように伸びてくるママさんの手の体温を感じていた。
 少女は、顔を合わせようともしない彼に苛立つような視線をぶつけていたが、ふと着ているシャツに手をかけた。「見て」彼に背中を向けると、裾を両手でめいっぱい引き上げる。「ちゃんと見て」
 むき出しの背中を縦横に走る無数の傷痕が、彼の視界いっぱいに突きつけられた。治りかけた上から更に新しい打擲が加わって、ひとつひとつの線をたどることも難しい。まるで網の上で焼かれたように赤黒く腫れ上がった肌の上を、じゅくじゅくした黄色い膿が、新しい傷から滲み出す血と混じって、吐きたくなるような臭気が鼻を打つ。全てが、悪い夢を見ているような鮮烈さで、彼の感覚をなぶるように訴えてきていた。
「ねえ、この背中のどこに羽根があるの、翼があるの? 傷の中に隠れてたりするのかな? 痛いけど指でほじくったら出てきてくれたりするのかな? 自分じゃできないから、君やってみてくれない? 血だらけで臭くて、そんなんでとても空飛べるなんて思えないけど。だって、君には見えたんでしょ? 私の翼が」
 彼は、少女の出し抜けの激情に怯えて後じさる。少女は向き直ると、逃がさないとばかりに詰め寄った。
「それに知ってた? 私、高いところダメなんだよ。ここに来るのにベランダまたぐのだって、足ガクガクだったし、落ちるんじゃないかって怖くて泣きそうだったんだよ? 翼があったって怖くて飛べないかもしれない。笑っちゃうよね」
 彼の背中が押し入れの襖にぶつかる。中に逃げようとしたが、素早く回り込んだ少女に阻まれた。少女は、しゃっくりのように喉を鳴らして、容赦のない蔑むような視線を彼にぶつける。
「私こんなんだよ? こんな汚い格好で傷だらけで、みんなから馬鹿にされて、こんなのが天使なの? そんなわけないじゃない。みんなの幸せとか笑顔なんて、自分のだってどうにもできてないのに。君だって、最初からそう思ってたんでしょ? この前だってさ、翼があるフリをしてれば君が困った顔するのを笑って、なあんちゃってそんなのあるわけないじゃんって言うつもりだったのに。君、何なの? どうして、あんなこと言ったわけ? 天使なんだってありもしない翼を自慢してるのに話を合わせて、からかってやろうと思っただけ? 頭のおかしいかわいそうな奴だからって同情してくれたのかな? 君だって、私とおんなじ何もできない子どものくせに、偉そうにしないでよ」
 ママさんが言ったことは正しかった。彼には、絵本の子どものように見たままを叫ぶことはできなかった。でも、それは口にする勇気がなかったからとは思いたくない。さかしらにその場の空気を読んだつもりもなかった。だって、少女は確かに天使だと、そう思えたのだから。
「何も言ってくれないけど、私わかってるよ。君、おかあさんにひどいことされてるんでしょ? あごのそのケガ、おとといはそんなのなかったじゃない。ごはんだって、おかあさん、ちゃんと食べさせてくれてる? おとうさんは? おかあさんに言える人、誰もいないの?」
 彼は少女の声がほとんど聞こえなかった。いや、聞きたくなかった。彼女がベランダの手すりに立ったあの時から、彼はその背中に何も見つけることはできなかったけれど、それは少女の思いとは何も関係ない。ママさんにも同じように見えたとしても、たとえ世界中の誰からも相手にされなくたって、私は天使なんだと誇る少女の意志がある限り。それは、バカと思われることが怖くて、存在しない服を着ている道化を演じた絵本の王さまなんかとはまるで違う。まして、ぬいぐるみ同然にママさんから「かわいい」と思われることだけに汲汲としている彼自身なんて。だから彼も、思ったままを伝えた。それなのに、彼の信じた少女を彼女自身が否定してしまうなんて。
「こんなに小さいのに、私とおんなじくらい辛い目にあってるなんて、お隣さんなのにずっと気づけなかった。ねえどうして何も言ってくれないの? おねえさんに教えてよ。きっと君の力になってあげられるから」
 ママさんとは違うものを少女に期待していた気持ちが、風船のように萎んでいく。そしてそれを知られれば、きっと余計に彼女を悲しませてしまうだろうことが怖かった。彼は、いっそ、ママさんが帰ってきてくれたらとさえ思った。明日はまた元に戻っていても、とりあえず今日のママさんの方が心地良い。少女の手が腰のベルトに触れて、彼の総身に怖気が走った。揺すって振り払おうとすると、少女は追い詰められたように声を高めた。指が玩具を固定するスイッチを見つけて、彼はベルトを脱ぎ捨てた。
「どうして? ほんとのことを話してよ。君の役に立たせて。私に君を助けさせてよ。ねえ、何とか言ってよ!」
 彼は耳を押さえてうずくまり、少女はそれを呆然と見つめる。堂々巡りで同じところへ帰ってきたことを認め合うには十分な沈黙が訪れた。
「ごめんね、怒鳴ったりして。天使なんて言って君を困らせたのは私なのに、君は何にも悪くないのに」
 盛っていた火が消えたように、少女の声が重く沈む。彼は、ふてくされたように身をすくませていた。畳に散らばった駄菓子を指でもてあそぶ。この前は気持ちを明るく導いてくれた彩りが、どうして今日に限って控えめに色褪せて見えるのか、憎らしくさえ思えた。
 少女は彼の玩具を手に持って、表面のゴテゴテした造形やボタンを眺めていたが、やがて「君も、いつか変わりたいって思う時が来るよ」とつぶやいた。
「私、小さい頃から何にもちゃんとできたことなくて、いつも役立たずって怒られてばっかりだった。でも、こんな私だって天使になれば、それだけでみんなの役に立てる力を持てる。そしたら、生きていてもいいんだって思える。そう教えてくれたんだ、あの人が。君は、もう信じてくれないかもしれないけど、天使は、ほんとにいるんだよ。だって、私のところに、来てくれたんだもん」
 少女はふいに、「アケルナ」の向こういっぱいに広がる、夕暮れに淡くなりつつある青を仰いだ。
「あの空から降りてきたんだ、天使のあの人。きのうのことみたいに、はっきり覚えてる。言葉を話すふしぎなネコの夢から覚めたばかりで、さっきの君みたいに窓の外を見てた。そしたら、空が真っ白な光で包まれて、全然まぶしくない、やわらかくてあたたかい光……。きれいだった。これ以上きれいなものなんてどこにもないくらい澄みきってた。その中に、あの人がいるのがわかる。ううん、あの光があの人そのものなんだと思う」
 少女は、胸に手を当てて、体の内側に耳をすませるように、肩を上下させて息を吐いた。
「あの人は言ったよ。翼が欲しければ、現実を飛び越えなさいって。苦しいことに負けちゃダメ。この世界のどんな痛いことや嫌なこと辛いことも体に受け止めて、でもそれでも、泣かないで跳ね返しちゃうくらいに強く、強く……そうすれば、私も本当の翼を持てる。みんなを、君を救える、天使に変われる」
 少女の言葉を真に受けようにも一笑に付そうにも、幼い彼の未熟な想像力では追いつくことさえ難しかった。それっきり少女の声は途絶えた。
 ひとりで過ごす彼の静かな午後が戻ってきたようだった。耳を傾けると、窓にぶつかる風の音に混じって、少女がハサミで何かを切っているサクサクという音が聞こえる。少し前、「ねえ。ここにハサミあるんだけど、使っていいかな」と気遣うような少女の声が背中を打った。玩具の包みを開けた時、ママさんは危ないからと言って彼からハサミを取り上げたくせに、片付けるのを忘れていた。何も応えない彼に、少女は「ちょっと借りるね、すぐ戻すから」と言葉を重ねると、そっと彼から離れた。何をしているのか気にはなったが、変に意固地になってしまった気持ちは、振り向くことを拒んでいた。
 どれくらい経ったろうか、彼の火照った体と悶々とした頭を、一吹きの風が薙いだ。西日で熱がこもった部屋に爽やかな空気が吹き込んで、彼は目を覚まされたように体を捻った。窓の開いたベランダを、そこで彼が起き上がるまで待っていたように立つ少女を見た。
「いくよ、まばたきしないで!」 
 手すりを越えた七階の中空に、吹き上がる風を受けてほんの一瞬、無数の白く、小さな欠片が舞い上がる。彼の瞳はカメラがシャッターを切るように、まるで羽根のようなそれらが、少女の手のひらから青い空と下界の風景との狭間へと、解き放たれていく瞬間を収めていた。足が窓の縁で何かに触れる。見ると、落ちているハサミのそばに、型抜くように裁断されたブラウスが散らばっていた。
「落ちてくよ。こっち出て来て、見てみない?」
 いつにも増して強い風に髪をかき回されながら、少女の声が彼を誘う。サッシを踏み越えようとした足が、ギリギリのところで「アケルナ」に気づいて引っ込んだ。少女は彼の慌てように、くすりと微笑んだ。手の中に残っていた最後のひとかけらを、風に放ろうと離しかけたところでぎゅっと握りしめる。ベランダと部屋の境界を越えて、少女の手が彼へ伸びた。「これ、君に持っててほしいんだ。私が、ほんとの天使になるまで」少女は言った。
「とっても嬉しかったんだよ。君が私のこと、天使だって認めてくれて。でも、そんな君を裏切ってる自分が情けなくて、恥ずかしかったんだ」
 彼は、半ズボンの陰に隠していた手を差し出した。二人の手は、触れ合う一歩手前のところで互いを求めぬまま静止する。少女が手を広げると、白いかけらは彼の手のひらに落ちた。布地には、黄ばんだ染みのような汚れがついていた。
「今、君にあげられるのは、こんなブラウスの切れっぱしだけ。でも、私、必ずなってみせるからね。あの人に負けない、強くてかっこよくて、すてきな天使に。そしたら、君のために、本物の羽根で飛んで見せるよ。それまでは君が、持っていて。おねがい」
 少女の瞳が、彼がドアを開けて出会った時のように、ベランダを越えて彼を訪れた時のように、彼が天使と信じた力を取り戻して、またたいた。彼は、少女の背にどこまでも広がるベランダの先の空を見た。その虚空を、翼をはためかせて自由に舞う少女の姿が、思い描けるように。視界の隅に、団地の歩道が望める。道端の植え込みを踏みつけながら、この建物の一階の入口へ向かう人影が見える。派手な色の髪と服が、夕陽を跳ね返している。──ママさん。彼がそう気づいた時には、ママさんは顔を上向けベランダの二人を見紛うことなく捉えた。一拍遅れて少女が何気なく振り返ったが、下にはもう誰の姿もない。エレベーターに乗っているか、降りてくるのを待つのももどかしく階段を駆け上がっているか。聞こえるはずもないのに、ママさんの足音が彼の耳に直接ハンマーで打つように響いて痛い。どうすればいい。二階を三階をあっという間に、ママさんはこの部屋に迫ってくる。少女を逃がさないと。彼女が手すりを越えるだけの時間があるかどうか。隠れる、押し入れか風呂場か。でも、既に二人一緒のところを見られているのに。ママさんを説得できるどんな方法があるのか。コツコツコツと早い聞き覚えのある靴音は空耳じゃない。ダメだ。間に合わない。音がどんどん大きくなり、外のドアの前で止まった。回転するノブ。開かない。少女が玄関のドアを見やった。鍵穴に鍵が刺さる。錠が外れた。彼は叫ばずにいられなかった。──ここから、外へ、連れてって。
 ドアが開いた。同時に、少女の腕が背中に回る。彼は、信じられないほど強い力で少女の方へと引っ張られた。彼と同じ、汗と垢と血の混じった臭いに抱きしめられる。
「言ったでしょ。天使は絶対、君の味方だからね」
 最後に、そう耳元で囁くと、少女は彼の頭をがっしりとつかんだ。何をするのか問うより早く、彼女の唇が彼の言葉を塞いだ。息が、できなかった。
 玄関を入ってすぐの床に、ママさんのバッグと一緒にレンタルショップの袋が落ちた。勢いで、中の透明なDVDケースが、転がり出る。ディスクは虹色の光を揺らめかせるが、誰の目にも留まらない。



テーマ : 自作小説
ジャンル : 小説・文学

翼で飛ぶ。 (3/5)

 少女は、彼の押し入れを覗いたり、畳に放られた絵本を手に取ったり、部屋の中を興味深げに見回していく。そんな彼女をよそに、彼は背中の「アケルナ」を後ろめたい表情で落ち着かなく振り返るばかりだった。
「間取りは同じみたいだけど、やっぱりよその家のにおいがするね。……どうかした?」
 少女が心持ち首を傾げただけで、ブラウスはだらりと形崩れてしまう。自分で直そうとしたのか、襟元の繕いは伸びきった布地を留めるには、あまりに拙い出来だった。濃色の糸で縫われた跡は白地に嫌でも浮き立つばかりか、破れ目をとりあえず繋げるためにうねうねと曲がりくねって、少女の首を這う蛇のようだ。服を見つめる彼に気づいてか、少女は襟に手をあてがって、
「ああ、これ? 平気。天使は、これくらいじゃ負けないよ」
 と、ことさらに声を張って答えた。
「君こそ大丈夫? さっきドタンバタン聞こえたけど。おかあさんにぶたれたりしたんじゃない?」
 口の中の傷に舌が当たってドクンと脈打った。彼は痛みにしかめた顔を気取られないように、はっきりと否定した。そんなことは一度もなかったし、これからだって絶対に起こりっこない。そう思い込もうと、必死で前髪が踊るほど首を振った。
「そう? なら、いいんだけど」
 少女は声の端にいぶかしさを含ませながら、隣の部屋へ足を向ける。
「きのうも同じ格好してたよね。お風呂入ってる? 男の子だってフケツにしてると、女の子に嫌われちゃうよ。……すごい、ぬいぐるみがいっぱいだ」
 少女はリビングに一歩入るや、浮き足立った嘆声をこぼした。ママさんが店で買ったり、ゲームセンターの景品で手に入れたぬいぐるみは、持ち主がいない時間、彼を押しのけ部屋の主人に成りすましている。それぞれはやわらかな形と色彩を備えていても、未整理に並べられ積み重なると、ひとつひとつでは顕れない無言の圧迫を伝えてくるようだ。少女の足先に、クマのぬいぐるみがうつぶせに転がっている。ママさんがソファに倒れ込んだ勢いで落ちたままになっていた。少女が、拾おうと腕を伸ばす。
 ──おこられる、ママさんに。
 彼は無我夢中のまま少女にしがみついていた。握るに任せた彼の手は、少女のスカートの裾をとらえる。彼のだしぬけの行動に、少女は小さな悲鳴を上げてバランスを崩す。足がカーペットを滑り、二人はもろともに床に倒れた。
「いったあ……ちょっと、何するの」
 少女はスカートをさすりながら半身を起こした。したたかに打ちつけた体の痛みに、彼女の声が、ささやかな剣を含んだ。
「さわっちゃダメなら、言ってくれればいいのに」
 重ねて問いただそうとした少女は、傍でうずくまっている彼を見て言葉を詰まらせた。
彼は、全身を縮こませて震えていた。背中を丸め、両手で頭をかばうように抱えて、足は薄っぺらい胸板に触れんばかりに折り曲げて、瞼をぎゅっと閉ざして。
「君……」
 少女から逃げるように、彼は部屋の隅へにじり寄る。食いしばる歯の隙間から漏れ出る嗚咽を、少女は聞いた。混じる息づきが声に移ろい、少女へ伝わる。
「ぶたないでね。ぶたないでね」
 まるでそれ以外の言葉を知らないように、彼は繰り返し唱える。少女の悲鳴にくらべても、ひどく弱弱しく果敢ない哀願だった。けれど、それは彼女と少しも変わらない、その日一日を乗り越えるための、彼なりの方法だった。
 少女は、目の前で怯え色を失っている彼を見て、差し伸べた手を拒絶された昨日の玄関でのことを思い出した。他人の手足が、凶器のように彼を脅かしてしまうのなら。少しの逡巡を経て、少女は思いついたように両手を後ろで組んだ。畳に膝をついて、ゆっくり姿勢を低める。うなだれた彼の頬には、涙の筋が何本も走っている。二人の横顔が、そっと重なった。互いの息と肌が、絡みつくように温かく触れ合う。
「大丈夫。ぶったりしないよ。ぶったりなんかしないから、ね」
 少女の吐息が彼の鬢をそよと揺らす。彼のうな垂れた頭がびくんと持ち上がる。おずおずとした緩慢な動きながら、両の瞳が彼女を求める。ようやく反らすことなく、彼は少女の顔を見た。
「これで、本当に、はじめましてだね」
 昨日の続きを促すように、少女は微笑んだ。彼は、こくりとひとつ、うなずく。そのタイミングを待っていたように、彼のお腹がぐるると鳴った。


 再びベランダを「飛んだ」少女は、いっぱいに膨らんだスーパーの袋を片手に戻ってきた。「じゃじゃーん。とっときのカップラーメン」を取り出して、それでももじもじしている彼を見ると、みなまで言わせず封を開け、台所のヤカンで湯を沸かすと「三分待って」フォークで蓋して彼の前に置いた。最後の十秒を少女のカウントダウンで迎えると、彼は熱いスープに舌がビクつくのももどかしく、あっという間に平らげた。ラーメンをすすっている間中、彼は袋に入ったスナック菓子の色とりどりな包装に目を奪われていた。ママさんのおこぼれじゃないおやつを食べたのは、いつのことだったろう。スーパーの菓子売場を最後に歩いた記憶も、はるか遠すぎて夢に近しい出来事のようだった。チーズ味の駄菓子は袋に数え切れないくらい入っていて、食べても食べても底が見えなかった。
 少女は、「もっとお行儀よくしないとダメだよ」と言いつつ感心していたが、次第にママさんが彼にどんな食事を与えていたのか疑わずにいられなくなり、その表情に陰が差した。
「明日も、ううん、いつでも持ってきてあげる。天使は、何でもできるんだから」
 その言葉を口にすると、少女の顔は憂いから解放される。それどころか、ひときわ明るく輝きを増すようにさえ、彼には思えた。──テンシ。彼は、そっと口の中で転がしてみる。
「もしかして、天使って知らないの」
 少女の問いかけに、彼は困惑を顔に浮かべる。
「本やテレビで、見たことない?」
 少女は尋ねてから、ぬいぐるみだけが満ち足りているこの部屋を見渡して、「そっか、わかんないよね」と、つぶやいた。「そんな恥ずかしがらなくていいよ。教えてあげる」と、床に座り直すと、えへんと喉を鳴らして、物語を読み聞かせるように、ゆっくり言葉を接いでいく。
「天使はね、神様のお使いなんだ。背中には鳥みたいに、真っ白な羽根の翼が生えててね。自由に空を飛ぶことができるの。世界中の困ってる人や苦しんでる人を助けて、みんなの笑顔や幸せを守るために、がんばってるんだよ。どう? 私の翼、君には見えてるかなあ?」 
 少女は、おちょくるように跳ねた声音で尋ねると、胸を張って肩を上下に動かすような身振りをする。確かに、さっき手すりの上に立った少女の姿に、彼はまっさきに思った。──鳥みたい、と。でも彼が今、どんなにためつすがめつしたところで、彼女が背中でたおやかに広げては折りたたもうとしているらしいものの影さえ、見えはしない。少女の答えを促すような表情が、彼に迫る。まるで、押し入れの絵本の話だ。職人が王さまに語る。『さぁどうです、王さまにぴったりな、たいそうりっぱな布でしょう?』彼は、救いを求めるように顔を上げた。
 少女は吐息に埋もれかかった声で「……ほんと?」と、言ったきり声を詰まらせた。口を開きかけたまま、信じられないものを見るように眼差しを固まらせる。あらかじめ言おうとしていたことが、彼の短い一言で意味を見失ってしまったように。その内で、彼の応えを何度も反芻するように。深呼吸するような長い瞬きの後、彼を見つめる瞳は、それまでになく優しかった。
「ううん、そうでしょ、そうだよね。だって、この翼があればさ、どこまでだって自由に飛べるんだよ。今度、一緒に外、出てみようよ。君だって、いつも部屋の中でお留守番してるだけじゃ退屈でしょ? どこか行ってみたいところとか、ない?」
 少女が沈黙を埋め合わせるように口走った何気ない質問が、彼の心に大きな重しのようにのしかかった。行きたいところと聞かれれば、その答えはずっと前から決まっている。けれどその場所は、ママさんにビイビイ泣くんじゃねえ忘れろと怒鳴られ血の味で封じられている。ほっぽらかしてあんたを一人で遊ばせてた糞女のことなんか忘れろ今日からあたしがお前のママなんだよわかるまで殴るぞわかったか。涙の塩辛さと血の鉄臭さに塗れたあの日から、彼は理解した。おまえはおかあさんなんかじゃない、おまえはママさんだ。
「おかあさんとこ? そうだよね、一人ぼっちだと寂しいもんね」
 彼がただ一度だけ「おかあさん」と口にしたこの時が、少女が彼の保護者と信じて疑わなかったママさんの正体に気づきえた、最初で最後の機会だった。「私のうちは、おかあさんいないから。うらやましいよ」しかし、あまりにも屈託なく微笑む少女を前に、彼もまた、とっさにそうだとも違うとも取れる曖昧な表情でしか応えられなかった。もう一言、言葉を足そうと顔を上げた時には、もう遅かった。望んでいた眼差しは消え、少女は和室を向いてそちらにじっと注意を注いでいる。彼はちっとも気づかなかったけれど、彼女は話している間も聞き耳を立てていたに違いない。彼の押し入れのそのまた向こうで、さざめく気配を、ずっと。大きな体の重みを受けた、ミシリという床鳴りを。
「お兄ちゃん、何でもう起きたんだろ……帰らなきゃ」
 少女は、食べ散らかしたラーメンの容器や菓子の袋を手早くかき集めると、窓の引き戸に手をかけた。心細そうに少女を仰いでいる彼に気づくと、振り返って、安心してとばかりに胸を叩いた。
「大丈夫、天使は絶対、君の味方だからね」  
 午後の日差しが運んできた、ほんの一時のあたたかな夢だったように、部屋はまた彼ひとりを残して黄昏に包まれていく。腕を伸ばせば、少女を迎え入れるために外した窓の鍵に触れる。戻しておかないと、ママさんは帰ってきたらすぐに気づくだろう。掛け金を半回転させ、引き戸に手をかけ、開かないことを確認する。これで、全て元通り。
 彼は押し入れにこもって、耳を壁板にぴたりと密着させた。ほどなく、昨日をそっくりなぞるようなやり取りが始まった。
「破っちゃやだ! もうやめて学校行けなくなっちゃうよ!」
「どの口が言ってんだ、ろくに行ってもねえくせに! 制服なんかいらねえだろうが、さっさと脱げよ! おまえは俺の看病だけしてりゃいいんだよ!」
「病気なら病院行けばいいじゃない! 助けて!」
「俺は病人だぞ! 妹のくせになんて薄情な奴だ、この役立たず!」
「……そんな、役立たずじゃない! 私は……」
「うるさい口答えしやがって!」
 もう他人事には聞こえなかった。精一杯、喉を張り上げて抗おうとする声の主を知ってしまったから。ドスンドスンと唸る壁の向こうで、力なく沈黙していく少女を想像せずにはいられない。どうして大きな声は心を震え上がらせ、その先に泣きたくなるほど痛くて、逃げ出したいほど怖い力はわきおこるのか、全然分からない。彼女は一体、どんなドアを、窓を開けてしまったのか。はぁはぁと荒く吐き出される彼の息の合間に、少女の消え入るような泣き声は、いつまでも止まない。
 彼はおもむろに起き上がると、窓の鍵を、もう一度、元に戻した。



テーマ : 自作小説
ジャンル : 小説・文学

翼で飛ぶ。 (2/5)

 夢とも思い出ともつかないまどろみの中で、彼は玄関の鍵が回る音を聞いた。うとうとした頭は、逃げ出すのに夢中で鍵をかけ忘れた夕方に思いが及ばない。何ヶ月か前、新聞屋の執拗な猫なで声に心を許してドアを開けてしまった彼を、ママさんはヒステリックに問い詰めた。どうして開いてんだよ出たのか外出たのか。泣き叫ぶ彼のパンツを下ろして、尻を赤くなるまで張った。
「あれ開かないよう」
 日付もとうに変わっていたこの夜、鍵を差し込んで逆に開かなくなったドアに手をかけたのは、ママさんの勤め先の男だった。
「もう、なにやってんだボケ。鍵一つ回せねえのか。貸せよ」
 翌日、自分がどうやって家に帰ってきたのか思い出せないほど泥酔していたママさんは、同僚の犯した些細なしくじりなどに、頭が回るはずもなかった。
「ねえ、せっかく来たんだから、かわいいボクちゃんに挨拶させてよ」
 長身の男は、しなだれかかるようにママさんの金髪に顔を埋めながら、上着の内側をまさぐった。指先で真っ赤なキャミソールのストラップをいじくり回して、べったり汗ばんだ胸の谷間に風を送る。
「バカ言ってんじゃねえよ、また怯えるだろ。ようやく懐いてきたってのに」
「懐いたって、ペットみたい」
 男は口調に、あからさまな非難を漂わせる。ママさんは仏頂面で酒臭い息を吐いた。
「子どもには父親が必要な時があると思うけどね」
「誰もあんたに頼まねーし。大体、育てる気なんてないし」
「持て余したら放り出すの? やっぱペットじゃない。そんで捨てるのは、また私の仕事だったりして。拾ってきたみたいに」
 向こうも酔っているせいか妙に絡んでくる男がたまらなく鬱陶しい。ママさんは、ごちゃごちゃうるせえよ早く帰れホモと吐き捨てると、一発ぶん殴って黙らせてやるつもりで腕を突き出したが、固く握ることもおぼつかない拳は、男の顔のはるか手前で空を切る。男は何さ暴力反対平和主義と唱えながら、服の裾をつかもうとするママさんを体よくあしらい、手を振り振り階段を下りていった。狭い踊り場に香水の残り香が、むせ返るように立ち込めている。
 押し入れの彼は、帰ってきたママさんの機嫌が日によってまちまちなことには慣れていたし、時に一口飲んでみろと勧めてさえくる酒を含んだ夜は、気味が悪いくらい明るく騒ぐ調子に合わせてさえいれば、とりあえず安全だと学んでいた。靴を無頓着に脱ぎ捨てて、押し入れに向かってそっと忍び寄ってくる気配にも、どうすれば喜んでもらえるか知っている。
「ばああ。今帰ったぞう。キスさせろぉ」
 耳元に飛んだ唾は、酸っぱい臭いがした。彼は、さも眠りを妨げられた風を装って、天井のダウンライトに照らされたママさんの赤い頬を見た。
「びっくりしてやんの。ちょーかわいい。ヤキトリ買ってきてやったぞ」
 起き上がろうとする彼をママさんは軽々と抱くと、リビングの食卓の定位置に座らせる。椅子のクッションはコアラの顔を擬していて、彼はその上に尻を乗せるたびに罪悪感を尖らせる。電気のついたリビングには、その他にも動物や子どもをかたどった無数のぬいぐるみが、棚や床のカーペットを埋め尽くさんばかりに飾られている。彼と同じように、ママさんに「かわいい」と認められたモノたちだった。
 ママさんは、焼き鳥とコンビニで買ったお握りを、飲みかけの緑茶のペットボトルと一緒に彼の前へ「ほれ」無造作に投げ出すと、自分はふらふらした足取りでソファにばたんと身を任せた。ソファに乗っていたぬいぐるみの群れは押し潰され、あるいは周りに飛び散る。それもママさんは意に介さず、手に絡まっていたハンドバッグからケータイを取り出して、ワンセグを起動する。彼は横目でママさんの手の中の小さな映像が気になるが、もし怒られたらと思うと、ねだる一言が出てこない。スピーカーから漏れる深夜番組のガヤガヤも、ママさんの笑い声にかき消されて彼の耳まで届かない。部屋の隅のアナログテレビは、たまに借りてくるDVDのためだけにある。
 焼き鳥はすっかり冷たくなって縮こまっているようだったが、一日何も食べていない彼には、ようやくありつけるご馳走だった。串にしがみつく肉を、箸で引き抜いていくのももどかしいけれど、そのたどたどしさは却ってママさんの関心を呼ぶ。
「不器用―ぶきよう―。でもかわいいから許しちゃうっ」
 画面がテレビからカメラに切り替えられたケータイが、彼に向いた。光るフラッシュが、彼のぎこちない笑顔を切り取っていく。
 ──きょうも、いい子してた? 
 ──部屋の外もベランダも、出てないよね?
 ──おし、偉い。
 尋ねたそばから忘れてしまう質問と、痛みと叱責に引き替えて身につけた模範解答以外の意味を持たない返事の、他愛ないやり取り。それでもママさんは、満足した様子で彼の柔らかな髪をもてあそぶ。手が頭に触れた瞬間、彼は思いがけずびくりと震えた。叩かれる、という怯えは、体をいつも先走らせる。
 幼い彼にはとても理解の及ばない、店に現れる下劣な客どもの愚痴が一回りした頃、隣の部屋が騒がしくなる。ドスンドスン頭に響くような物音が、ママさんの饒舌を呑み込んだ。
「また始まった。毎日よく飽きないよ」
 慣れっことばかりに気にもしないママさんの腕の中で、彼は壁から目を離すことができなかった。知らず知らず体が竦んで、指一本動かすのも痛いくらいに緊張している。昼間の時より激しく声がぶつかっている感じがするけれど、リビングにいては間を隔てるものが多すぎて、ほとんど聴き取れない。押し入れなら、きっとわかる。昼間の少女の声も、少女を虐めている男の声も。
「ほんとうるさいねえ。いい? お外にはあーゆーランボーな人たちがいっぱいいるんだからね。絶対、出ちゃだめだよ」
 すぐにでも押し入れに戻りたかったが、アルコールが回りきったママさんの頭は、彼の焦燥に気を揉む余裕もない。自分がいつの間にか失くしてしまった、きめ細やかな幼い肌に、酔いしれるように頬をすり合わせて、すっかり夢中になっている。されるがままの彼は、周りのぬいぐるみに睨まれているような気がしてならない。ママさんは彼の髪を掻いて耳を顕すと、口を寄せた。どす赤い上下の唇が耳たぶを挟むと、汗と酒の入り交じった体臭が、彼の鼻を突く。かわいいと言って彼を抱くママさんは、いつだって優しい。でもこの間まで部屋の隅で埃をかぶっていたネコを思うと、彼の気分は晴れない。ママさんは「どうしてこんなもん買ったんだ。全然かわいくない。むしろキモい」と言い、ネコはその日のうちに部屋から消えた。ママさんに「かわいくない」と言われたらと考えるだけで、彼はなかなか寝付けなかった。


 窓の向こうが暗くなれば今日は昨日に近づいて、明るさを増すごとに明日と呼ばれていた新しい一日が取って代わる。しかし、昨日と今日と明日は、どう違う? ママさんの言動以外に、それを知る手がかりを彼は持たない。この日が、ママさんの悲鳴のような甲高い詰問で始まったように。
 ベランダから射し込む光に瞼をくすぐられて、ママさんがソファに横たえていた体を気怠く起こしたのは、日も傾き始めた頃合だった。寝過ごしたと急いた気で辺りを手探ったが、昨晩握って眠ったはずのケータイが見当たらない。目覚ましが鳴らないわけがないし、そもそもどうして電話が消えたのか。おまえだろてめえが隠したんだろと、ママさんは激高を剥き出した。めりはりのない眠りと空腹に悩まされながら、ママさんの懐でじっと朝を待っていただけの彼を、責め苛むことしか頭になかった。ソファのクッションの隙間に電池を切らして潜り込んでいたケータイが見つかるまでに、口汚い罵りと暴力は一渡り吹き過ぎてしまった。一緒に入れてもらえるはずだった風呂も彼には許されず、ママさんは一人で浴室にこもり、食事も取らずに身なりを整え、彼を取り残した。玄関の錠は、今日も重い音を立てて下ろされた。
 口の端をいじっていた指先に、ようやく新しい血が付かなくなって、彼は台所で水を含んだ。シンクに吐き出した水はほの赤く、ツンとした痛みが口の裏側に走る。ゆうべのままのテーブルを見回したが、食欲を満たせるものは何もない。皿の上の乾いた焼き鳥の醤油ダレを舌でなめれば、もうおしまいだった。押し入れで、ママさんの帰りを待つしかない。言えよ言えよ何でママって言えねえんだよ。彼を打ち据えるごとに唾と一緒に吐き出したママさんの声が、頭の中で鳴り続ける。疲労は募るばかりだったが、空腹感が邪魔して眠ることすらかなわない。昨日と同じ彼方の空が、恨めしかった。


「ドア、ノックしたのに聞こえなかった? 返事してくれないから、こっち来ちゃった。外、気持ちいいよ」
 少女は、当惑した表情を浮かべる彼の目の前に、窓一枚を挟んで立っていた。
「どうやったかって? 開けてくれたら、教えてあげてもいいよ」
 そうこともなげに言うけれど、ベランダの端の隣室とを隔てている仕切板は、窓辺に寄れば見ようと思わなくても彼の目に入る。板は縦も横も上階の外壁やベランダの手すりすれすれまで接して、乗り越えられるとは思えない。玄関で顔を合わせた昨日から、彼の脳裏には繰り返し少女の姿があったが、いるはずのない場所に現れた彼女は、まるで彼の想像の外にあった。
「きのうは、驚かせてごめんね。今日は大丈夫。やっと寝てくれたから、きっと夜まで起きてこないよ」
 そう言って、少女は窓に貼られた「アケルナ」の文字を、指で右から左へなぞっていく。そのしぐさは、部屋に連れ戻された午後や、その後の夜の騒ぎを引きずる様子もなかった。それだけに、破れ目が繕われた跡の残るブラウスが、なおさら痛々しく映った。
「ア、ケ、ル、ナ。これ、玄関にもあったよね。それなのに、きのうは開けて今日は開けてくれないのは、君の気まぐれなの? それとも、きのうおかあさんに怒られちゃった?」
 少女はそう言って、いたずらっぽく唇をすぼませる。突然の訪問に加えて、長いことママさん以外の他人を知らない彼に、彼女の挑発めいたくすぐりをいなすことなどできない相談だった。それどころかどう応えていいかもわからず、恥ずかしくて頬を染めてうつむいてしまうと、少女は一層、おかしそうに相好を崩した。
「あとで挨拶しに来ちゃおうかな。ノックしたら男の子が開けてくれましたって、おかあさんに言ったらどうなるだろ」
 ──勝手に開けて、逃げ出そうとしたり、外の誰かにチクったりしたら、わかってんだろうな。忘れられないママさんの凄んだ声が、彼の頭の中でよみがえる。少女は大したことないように誘うけれど、ママさんの怖さを知らないからだ。さっきママさんを見送りに立った玄関で、昨日の鍵のことを思い出し、どうしてバレなかったのか背筋を凍らせたばかりだった。
「鍵を外してくれるだけでいいんだよ。君がアケルわけじゃないんだから」
 少女が助けを求めてきたのに何もできなかった昨日の負い目に、背中を押されていたのかもしれない。久しぶりにママさんではない誰かの優しさに、もっと身を委ねていたいという願望もあったと思う。とは言え、その時の彼はママさんに気づかれる不安で頭がいっぱいで、少女の勢いに呑まれるまま再び禁を破るしかなかった。
「ありがとう」少女が窓を横にスライドすると、途端に涼やかな風が吹き込んだ。
「答え。空、飛んできたんだよ。──見てて」
 少女は彼に目配せして、隣との境の仕切板に歩み寄る。真剣な表情で呼吸を整えると、ベランダの白亜の手すりを両手でつかみ、体を一気に引き上げた。思わず息が止まる彼の前で、少女は手すりを素足でしっかり踏みしめて、ちょうど二つの部屋の間に立った。一歩外れれば、二十メートル下の地面に墜落しかねないが、ばんざいするように揚げた両腕は外壁の縁をつかんで、風にあおられないようバランスを取っている。髪やブラウスやスカートがはためくと、翼を休めに舞い降りた鳥のようだ。
「私、天使なんだ。よろしくね」
 誓いの言葉を述べるように、誇らしさを満面にたたえて、少女は言った。手すりの足をそろそろと横に滑らせて、何事もなかったようにベランダに着地する。



テーマ : 自作小説
ジャンル : 小説・文学

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